anezakimanのアブダビ日記

アラブ首長国連邦アブダビ首長国に駐在になりました。そこで出会ったことを綴ります。

新版『日本国紀』を読む(上巻)

昨日は日本の建国記念の日。神話からの神武天皇含めた日本の歴史では今は皇紀2682年。万世一系2千年の歴史を持つ我が国の建国の記念日であり、日本はもちろん祝日だが、ここでは普通の金曜日。俺は引き続き濃厚接触で自宅隔離中。。

建国記念の日を祝して、記しておきたいのがこの本。

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旧版『日本国紀』も読んで感動したが、12月の日本帰国時に新版を買って読み、改めていたく感銘した。本書については、内容的にいろいろと議論あるが、そんな思想的な背景は別にして、何よりも日本人を元気にしてくれる。被虐史観的なアンバランスをバランスさせてくれる。物語としての通史としても出色だが、特に我々のように海外にいる日本人が、海外の人たちに誇りを持っていえる日本の歩み、日本人像が満載だ。

以下、感銘を受けた部分を、俺の備忘録として抜粋する。書き始めたら思った以上に長くなってしまった。いったん古代から幕末までの上巻から。

  • 我が国、日本は神話の中の天孫の子孫が万世一系とされ、実際、大和政権が成立四世紀から二十一世紀の現代までその皇統が続いているとされています。こんな国は世界のどこにもありません。日本はこの万世一系の皇統により、「世界最古の王朝」であると、世界の国々から畏敬と驚異をもって見られています。
  • 聖徳太子が制定したといわれる日本初の条文法「十七条憲法」は、驚嘆すべき先進性を秘めています。世界のほとんどが専制独裁国であった古代に、「争うことなく、話し合いで決めよう」ということを第一義に置いた法を定めたというのは、世界的にも珍しい画期的なことであったといえます。
  • 『万葉集』は現存する最古の和歌集ですが、この中には、天皇や皇族や豪族といった身分の高い人々の歌だけではなく、下級役人や農民や防人など、一般庶民ともいえる人々が詠んだ歌も数多く入っています。遊女や乞食(芸人)といった当時の最下層の人々の歌も万葉集には収められています。千三百年も前にこれほど豊かで成熟した文化を持った国が世界にあったでしょうか。私は『万葉集』こそ、日本が世界に誇るべき古典であり、文化遺産であると思っています。
  • 「太陽が昇る国」ーこれほど美しく堂々とした国名があるでしょうか。しかもその名を千三百年も大切に使い続けてきたのです。これが私たちの国「日本」です。
  • 日本は飛鳥時代以前に都市から城壁をなくしました。これは単一言語を持つ民族であることと、日本列島が四方を海で囲まれていたことが大きかったと考えられます。西洋史や中国史と日本の歴史を見比べて、何よりもその違いに驚かされることといえば、ヨーロッパや中国では当たり前のように行われていた民衆の大虐殺がないということです。これは非常に幸運であると同時に、誇るべき歴史だと思います。
  • 日本の歴史において、皇室の血統を継がない者が天皇を弑し、自らがそれに代わる存在になろうとした人物は皆無です。ヨーロッパや中国大陸では、王や皇帝を殺して権力を奪った例は枚挙にいとまがありませんが、日本においてはただの一例もないのです。また平清盛以降、武士が権力を握りますが、時の権力者の中にも天皇にとって代わろうとした者はいません、これは世界的に見ても稀有なことです。そしてその結果として、少なくとも千五百年以上も続く世界最古の国として今に存在することとなったのです。
  • 遣唐使が廃止されて以降、真に日本らしい傑出した文化が花開くことになります。その一番は仮名文字の発明でした。平安京の女官たちが書いた枕草子、源氏物語、蜻蛉日記、更級日記などは、千年後の現代でも読まれている名作です。これらの文学作品は平仮名の発明なくしては生まれませんでした。私は、平安時代の文学が女性たちによって紡がれたことを、実に素晴らしいことだと思っています。日本以外の世界を見渡せば、多くの女性が書物を著わすのは近代になってからのことです。
  • 世界の大半を征服したモンゴル人からの攻撃を二度までも打ち破った国は、日本とベトナムだけです。これは日本人として大いに胸を張ってもいいことだと私は思います。北条時宗は「弘安の役」の三年度、三十二歳の若さで世を去りました。時宗という人物は、蒙古から日本を守るために生まれていた男だったといえるでしょう。
  • 驚くべきことは、当時の日本人がヨーロッパの鉄砲と火薬の技術をたちどころに吸収し、量産化に成功したことです。一説によると、戦国時代末期の日本の鉄砲保有数は世界一だったともいわれています。
  • (戦国末期にフランシスコ・ザビエルが書き残した日本人)「私がこれまでに会った国民の中で、キリスト教徒にしろ異教徒にしろ、日本人ほど盗みを嫌う者に会った覚えはありません」。「(聖徳に秀でた神父の日本への派遣と関連して)日本の国民が今この地域にいるほかのどの国民より明らかに優秀だからです」。「日本人はとても気立てがよくて、驚くほど理性に従います」。
  • 百年も続いた戦乱の世を生きてきた当時の日本武士たちは、これほど(二百六十八年も中国を支配した清帝国を創設した女真族の城を、文禄の役の時に簡単に攻略した)強かったのです。もしかしたら世界最強の軍隊であった可能性すらあります。
  • 明治時代後、あっという間に西洋に追いつくことができたのは、江戸時代の日本人にそうした蓄積があったからです。江戸時代は、百年続いた戦乱の時代が終わり、社会制度が急速に整い、国家秩序が安定した時代でした。世界に先駆けて貨幣経済が発達し、豊かになった庶民による文化が花開きます。徳川幕府の統治が安定していた約二百六十年間は、大きな戦争は一度もなく、日本の歴史上、最も平和で治安のよかった時代でもあったともいえます。
  • (勘定奉行の荻原重秀が実施した元禄時代の貨幣の金銀含有量を減らす幕府の改鋳施策について)これは現代の経済用語でいえば、「金融緩和政策」です。つまりこの元禄の改鋳は見方を変えれば、江戸時代の日本が世界に先駆けて近代的な管理通貨制度を採用した画期的な出来事だったともいえるのです(ただし完全ではない)。この好景気を背景にして、「元禄文化」と呼ばれる様々な娯楽や文化が生まれました。二十世紀イギリスの偉大な経済学者、ジョン・メイナード・ケインズよりも二百数十年も早く現代のマクロ経済政策を先取りした日本人、萩原重秀の功績はもっと語られてもいいと思います。
  • 関和孝は、和算と呼ばれる日本式数学の基礎を確立した人物ですが、「〇〇法」という計算法を用いて円周率を小数点第十六位まで正確に求めています。「〇〇法」がヨーロッパで再発見されたのは千八百七十六年ですから、関は二百年以上も先取りしたことになります。
  • 江戸時代の庶民が数学を勉強したのは、出世や仕事のためではなりません。もちろん受験のためでもありません。純粋に知的な愉しみとして取り組んだのです。古今東西を見渡してもこんな庶民がいる国はありません。
  • 就学率は地方によって差がありましたが、江戸では70~80パーセントだったといわれています。この数字、状況を見れば、江戸時代の庶民が世界一高い識字率を誇り、世界に類を見ないほど高い教養を持ったのも自明です。江戸時代の日本は極めて教育水準の高い国だったことがわかります。
  • 驚くのは江戸時代の治安の良さです。強盗や山賊が出ることは稀で、京都から江戸まで女性でも一人旅ができました。同時代のヨーロッパでは考えられないことです。
  • ポンプなどもない時代、高低差のみを利用してすべての上下水道を江戸の町中に網の目のように張り巡らせるには、きわめて高度な測量技術と土木技術が不可欠でした。当時の江戸には、この神業を成し遂げるほどの優れた技術者が何人もいたのです。三百年も前に江戸の町でこれほどのインフラ整備が行われていたことにはただただ驚嘆し、先人への敬意を深くするばかりです。
  • 江戸文化で特筆すべきことの一つは、世界に類を見ない外食産業の繁栄です。江戸の四大名物料理といわれた「蕎麦」「鰻の蒲焼」「天婦羅」「握り寿司」は、もとは職人たちが手軽にさっと食べることができる、今でいうファストフードのようなものでした。文化年間の頃には、江戸の料理屋は七千を超えていたといわれています。この数は同時代のパリやロンドンを圧倒し、世界一でした。江戸時代の後期になると、料理店のガイド本も多数出版され、料理店の番付が書かれたものも人気を呼んでました。現代の『ミシュランガイド』を二百年以上も先取りしていたのです。
  • (江戸時代の大火や大地震などの天災による甚大な被害に対して)江戸の町はそのたびに驚異的なスピードで復興しています。これほどの復興力を持った国は世界に類を見ないばかりか、その力は江戸に止まりません。私たちの祖先は決して挫けませんでした。悲しみと痛手を乗り越え、そのつど力強く立ち直ってきたのです。日本人の持つ独特の「忍耐強さ」「互いに助け合う心」「過去を振り返らない強さ」「諦めのよさ」などの精神は、もしかしたら繰り返しやってくる災害に立ち向かってきたことで培われたのかもしれません。その意味では、私たちの性格は日本という風土が生んだものといえるのではないでしょうか。
  • 江戸時代の農村では農民による自治が行われていました。これがヨーロッパにおける農村や農民と大きく異なる点です。
  • 伊能忠敬が作った地図を前にすると、私を言葉を失うほどの深い感動を覚えます。当時の平均寿命を超えている年齢から暦学を学び、五十五歳から七十一歳まで、日本全国を歩いて測量するなど、想像もつかない気力と努力です。さらに驚くべきことは、忠敬の測った緯度の誤差が約千分の一だったということです。
  • 黒船の来航から明治維新までの十五年間は、まさしく日本中がひっくり返るほどの大騒ぎとなりました。ここで特筆すべきは「天皇」の存在です。海の向こうから「夷荻(草冠なし)」が現れ、日本が未曽有の危機を迎えたとき、将軍や幕閣を含め、多くの人々が、「天皇」こそ、日本と日本人の精神的な柱であることに気づいたのです。
  • 日本人は世界のどの国の人々にも劣らない優秀な国民だと思います。しかし幕末における一部幕閣の政治レベルの低さと国際感覚の欠如だけは、悔しいながらも認めざるをえません。世界情勢に背を向けて、ひたすら一国の平和に浸かり、そこに日本人特有の「言霊主義」が混ざり合った結果、このような無様な事態(領事裁判権を認め、関税自主権を放棄したこと)に陥ってしまったのです。
  • (安政七年の遣米使節団の際)アメリカ人はまもなく、日本人一行の礼儀正しい振る舞い、慎み深い態度に感銘を受けます。ニューヨーク・タイムズ紙は「彼らは世界で最も洗練された人たちである。我々には奇妙に見えるけれども、彼らから見れば、我々も奇妙に見えるだろう」と書いています。
  • この後、日本は勝や竜馬が思い描いていたように動いていきますが、彼らの師として「世界」を教えたという意味で、中浜万次郎こそが幕末の日本に最も大きな影響を与えた一人だといえます。

下巻に続く。