anezakimanのアブダビ日記

アラブ首長国連邦アブダビ首長国に駐在になりました。そこで出会ったことを綴ります。

新版『日本国紀』を読む(下巻の前半)

下巻は明治維新から令和までだが、同じく書き出したら止まらない。。いったん太平洋戦争敗戦までの前半。

  • この時代(幕末から維新の頃)、白人の列強は大砲を装備した蒸気船で世界中を駆け巡っています。アフリカ、南アメリカ、中東、インド、東南アジア、中国などの有色人種の人々は皆、最新式の動燃機関を備えた船を見ています。彼らはそのテクノロジーに驚きはしたことでしょうが、同じものを作った民族はどこにもありません。しかし日本人は違いました。(佐賀藩主・鍋島直正、薩摩藩主・島津斉彬、上島藩主・伊達宗城らが主導して製作したアームストロング砲、蒸気船など)見様見真似でまたたくまに同じものを作り上げたのです。しかも欧米人の助力も援助もなく、三つの藩がそれぞれ独自の研究と工夫によって完成させたのです。私はここに我々の祖先の持つ底知れない力を見ます。
  • 平安時代の終わりに平家が実権を握って以来、約七百年間も政権から離れていた(途中、建武の新政があるが)「天皇」でしたが、鳥羽・伏見の戦いでその象徴である「錦の御旗」が揚がった途端、臨戦態勢にあった旧幕府軍の武士たちを一瞬のうちに、慄かせたのです。これが日本における天皇の「力」といえますが、その「力」とは「畏れ」ではなかったかと私は考えます。
  • 「江戸無血開城」として知られるこの事件は、日本史に残る燦然と輝く奇跡のような美しい出来事です。私は「これぞ、日本」だと思います。恨みや怒りを超えて、日本の未来を見ようという両者(勝海舟と西郷隆盛)の英断があったればこそのことだったからです。
  • (旧幕臣で横須賀造船所建設等で近代化を推し進めた)小栗忠順の死は、日本にとり実に惜しいことだったといわざるを得ません。もし幕末を生き延び、明治政府の重鎮になっていれば、どれほど日本の近代化に貢献できたかもしれません。幕末史においては決して忘れてはならない人物の一人です。司馬遼太郎は『「明治」という国家』の中で、小栗を「明治の父」と書いています。
  • 幕末から明治にかけて日本を訪れた外国人たちが、一種の驚きを持って、優しく誠実な日本人のエピソードを書き残したことは紛れもない事実です。それらの記録を読む時、私は自分たちの祖先を心底誇らしく思います。幕末の動乱の中で、多くの武士が日本の未来をかけて戦っていたその時も、庶民は日本の美徳を失うことなく毎日を懸命に生きていたのです。
  • 五箇条の御誓文の最初の二条について)これはわかりやすくいえば、「広く人材を集めて会議を開いて議論を行ない、人々の意見を聞いて物事を決めよう」「身分の上の者も下の者も心を一つにして国を治めていこう」ということです。ここには独裁的な姿勢は皆無です。まさに近代的民主主義の精神に満ち溢れています。
  • 明治五年に日本初の鉄道が「新橋ー横浜」間(約二九キロ)で開通しました。私はこの事実に驚愕します。鉄道計画が始まったのは明治二年十一月、測量が始まったのは明治三年三月です。そこからわずか二年半で最初の鉄道を開通させたことはまさに驚異以外の何物でもありません。
  • (明治初期の)当時の日本の政治家の精力的な動きには感心するほかありません。内外に様々な大きな問題を抱えつつ、欧米列強の意見を取り入れながら、多くの政策と法律を矢継ぎ早に出しています。そのスピード感と実行力は見事です。しかも新政府のすべての政治家が近代国家というものを初めて運営しているにもかかわらずです。翻って二十一世紀の日本政府からはそうした果断さは完全に失われているといえます。
  • 大日本帝国憲法作成と同じ頃、「君が代」が作られました。国際的な儀式や祭典には、国歌の演奏が欠かせなかったからです。「君が代」の歌詞は、平安時代に編まれた「古今和歌集」の詠み人しらずの歌からとられました。「君が代」は世界最古の歌詞を持つ国家ですから、ある意味、「世界最古の国歌」ともいえるのです。
  • 十九世紀後半から二十世紀前半にかけて、列強と日本は、中国をむさぼり続けます。私見ですが、これほどまで国を蹂躙された恨みが残らないはずはないと思います。二十一世紀の現在、巨大な「怪物」となった中華人民共和国が、覇権主義的な野望を隠そうともせず、世界の国々に脅威を与えているのは、もしかしたら百年以上前に味わった屈辱を晴らしたいという潜在的な復讐心からではないかという気さえします。
  • 「義和団の乱」おける柴五郎の籠城軍の実質司令官としての活躍、それを高く評価したイギリス公使、クロード・マクドルド。そして彼が日英同盟の強力な推進者となり日本を援護。柴五郎は日英同盟の影の立役者。戊辰戦争で敗れ、国と多くの家族を失った元会津藩士の男が、日本を救ったのです。
  • 高橋是清。桁外れな発想力、決断力を持つ人物、偉大な政治家。
  • 日本の日露戦争での勝利は世界を驚倒させました。三十七年前まで鎖国によって西洋文明から隔てられていた極東の小さな島国が、ナポレオンでさえ勝てなかったロシアに勝利したのですから当然です。日本の勝利が世界の植民地の人々に与えた驚きと喜びは計り知れないものでした。これ以降、世界の植民地で民族運動が高まることになります。まさに「日露戦争」こそ、その後の世界秩序を塗り替える端緒となった大事件だったのです。
  • (孫文によれば)この消息がヨーロッパに伝わると、ヨーロッパの人民は、みなそのため両親をなくしたように悲しみました。イギリスは、日本と同盟を結んでいましたが、イギリス人この消息を聞くと、たいていの人は、首をふり眉をひそめて、日本が大勝利を収めたことは、結局、白人にとり、不幸な出来事だと考えました。列強諸国の間で日本に対する警戒心が強まったのも、この頃からでした。
  • 韓国併合は武力を用いて行われたものでもなければ、大韓帝国政府の意向を無視して強引に行われたものでもありません。あくまで両政府の合意のもとでなされ、当時の列強も支持していたことだったのです。日本を朝鮮半島に凄まじいいまでの資金を投入して、近代化に大きく貢献しました。列強が植民地に多額の資本を投じて近代化を促進させた例はほとんどありません。ただ、結果論ですが、百年以上後の現代まで尾を引く国内および国際問題となった状況を見れば、韓国併合は失敗だったといわざるを得ません。
  • 明治を支えた学者たち。土木行政家の古市公威。フランス留学中、「自分が一日休みと、日本が一日遅れます」。世界で初めてペスト菌を発見した北里柴三郎。世界で初めてアドレナリン結晶抽出に成功した高峰譲吉。世界で初めてビタミンB1を抽出した鈴木梅太郎。私が何より驚嘆するのは、三人が義務教育の制度などなかった時代に少年時代を過ごしていることです。当時の日本人の凄まじいまでの勤勉さと優秀さ、気骨に胸を打たれます。
  • (第一次世界大戦後のパリ講和会議での「国際連盟」の議論の中で)国際連盟の規約に、日本は、「人種差別をしない」という文章を入れることを提起します。これは人類の歴史上、画期的なことでした。これ以前に、国際会議の席上で、人種差別撤廃をはっきりと主張した国はどこにもありません。(結果的に米英の反対を受けて成立しなかったが)世界に先駆けて日本が「人種差別撤廃」を謳ったことは、日本人として大いに誇るべきであり、もっと評価されるべきことです。
  • ドイツ人のユダヤ人迫害政策からユダヤ人を救った樋口季一郎少将。樋口ルートにより多くのユダヤ人を救った。彼はまたポツダム宣言受諾後のソ連軍進出に際して、麾下の九十一師団が占守島の戦いでソ連軍に痛撃を与え、彼らを足止めしたことによって、北海道侵攻を食い止めたといわれています。
  • 大東亜戦争を研究すると、日本軍参謀は「戦争は国を挙げての総力戦である」ということをまったく理解していなかったのではないかと思えます。アメリカもドイツも、戦争は総合力であるということを知っていたのです。ただ、それは第一次世界大戦の厳しい体験を通じて学んだ部分が大きかったといえます。一方、日本はそれを学ぶ機会がありませんでした。日本にとっての直近の大戦争は日露戦争であり、戦争は局地戦で勝利すれば勝てるという誤った教訓を身に付けてしまったのです。
  • 私が最も腹立たしく思うのは、当時の日本軍上層部失敗の責任を取らなかったことです。信賞必罰ではなく、出世は陸軍士官学校と海軍兵学校の卒業年次と成績で決められていました。個々人の能力はほとんど考慮されず、いくら能力が高くても、上の人間を追い越すことはできませんでした。
  • アメリカ海軍の強さはその能力主義と柔軟な人事にありました(ニミッツ大将・太平洋艦隊司令官の例)。一方、失敗の責任は厳しく追及されました(キンメル海軍大将の例)。
  • アメリカ軍による最も残虐な空襲は、八月に、広島と長崎に落とした二発の原子爆弾でした。これも無辜の一般市民の大量虐殺を意図したもので、明白な戦争犯罪です。原爆投下の目的の第一は、原爆の効果を知るため、もう一つはソ連に対しての示威行為です。原爆投下には有色人種に対する差別が根底に見えるということ。仮にドイツが徹底抗戦しても、アメリカはドイツには落とさなかったでしょう。
  • 古代以来、一度も敗れることがなかった日本にとって初めての敗戦でした。同時に、十六世紀より続いていた欧米列強による植民地支配を撥ね返し、唯一独立を保った最後の有色人種が、ついに白人種に屈した瞬間でもありました。
  • 「ポツダム宣言」をめぐっての会議(八月九日の御前会議)は「徹底抗戦派」と「ポツダム宣言受諾派」がともに譲らず、完全に膠着状態になりました。日付が変わって十日の午前二時を過ぎた頃、司会の鈴木貫太郎首相が、「事態は一刻の遷延も許されません。誠に畏れ多いことながら、陛下の思し召しをお伺いして、意見をまとめたいと思います」と言いました。ずっと沈黙を守っていた昭和天皇は、「それならば、自分の意見を言おう「と、初めて口を開きました。「自分は外務大臣の意見(宣言受諾)に賛成である」。日本の敗戦が決まった瞬間でした。
  • 薄暗い地下壕で、十一人の男たちが号泣する中、昭和天皇は絞り出すような声で言いました。「大東亜戦争が始まってから陸海軍のしてきたことを見ると、予定と結果が大いに違う。今も陸軍大臣、陸軍参謀総長と海軍軍令部総長は本土決戦で勝つ自信があると言っているが、自分は心配している。本土決戦を行なえば、日本民族は滅びてしまうのではないか。そうなれば、どうしてこの日本という国を子孫に伝えることが出来ようか。自分の任務は祖先から受けついだこの日本を子孫に伝えることである。今日となっては、一人でも多くの日本人に生き残ってもらい、その人たちが将来再び起ち上ってもらう以外に、この日本を子孫に伝える方法はないと思う。そのためなら、自分はどうなっても構わない」。
  • 日本政府はその日の朝、連合国軍に「ポツダム宣言受諾」を伝えますが、この時、「国体護持」(天皇を中心とした秩序の護持)を条件に付けました。連合国軍からの回答は十三日に来ましたが、その中に「国体護持」を保証する文言がなかったため(天皇の処刑の可能性もあった)、政府は十四日正午に再び御前会議を開きます。この席上で「(陛下を守れないなら)本土決戦やむなし「という声が上がりますが、昭和天皇は静かに立ち上がって言いました。「私の意見は変わらない。私自身は如何になろうとも、国民の生命を助けたいと思う」。
  • そして昭和天皇は最後にこう言いました。「これから日本は再建しなくてはならない。それは難しいことであり、時間も長くかかるだろうが、国民が皆一つの家の者の心持になって努力すれば必ず出来るであろう。自分も国民と共に努力する」(当時の内閣書記官長の証言録より)。この歴史的な出来事の経緯と昭和天皇のお言葉が、今日、文科省が選定したどの歴史教科書にも書かれていないのは不可解としか言いようがありません。したがってこのことを知っている日本人はほとんどいないのが実情です。しかし、日本人であるならば、このことは永久に忘れてはならないことだと思います。

下巻の後半に続く。