anezakimanのアブダビ日記

アラブ首長国連邦アブダビ首長国に駐在になりました。そこで出会ったことを綴ります。

ボスニア・ヘルツェゴビナ共和国旅行記・前編

イード休暇で初めて中欧の国に足を踏み入れた。旧ユーゴスラビアの中核国であったボスニア・ヘルツェゴビナ共和国(以下ボスニアと略す)である。きっかけは最近の俺のお気に入りLCC、Wizz Airのアブダビからの直行便の行先に上記国の首都であるサラエボがあり、そういえば中欧、あるいはギリシャ以外のバルカン半島の国に行ったことがなく、片道5時間程度のフライトということで、トライしてみることにした。

準備編

サラエボといえば、第一次世界大戦のきっかけとなったオーストリア・ハンガリー帝国の皇位継承者の皇太子夫妻が暗殺されたサラエボ事件と、1984年に開催されたサラエボ冬季オリンピックくらいしか馴染みがない。そこでせっかく行くのだからと、いつもの『地球の歩き方』(中欧編として14か国をカバー、とても有用)に加えて、出発直前に『ユーゴスラヴィア現代史・新版』(柴宜弘、岩波新書)をキンドルで購入した。行きのフライト出発時間が幸いにも2時間遅れたため(苦笑)、サラエボの空港に着くころには読了していた。

これらを踏まえて、俺なりにこの国の歴史を概観すると、まさに民族と宗教の入り乱れた複雑多様な歴史と言える。

  1. 4世紀末のローマ帝国分裂以降、ビザンツ帝国、ゲルマン民族移動後の諸王国、南スラブ民族進出と諸王国、オスマン帝国、オーストラリア・ハンガリー帝国、第一次大戦後の「第一ユーゴ」と称される南スラブ初の統一国家王国と、東西の様々な民族が入り乱れて戦い、支配してきた。この間宗教的にもキリスト教カトリック、同正教(セルビアンオーソドックス)、イスラム教、ユダヤ教が入り混じって、民族と宗教が混然一体となって歴史を紡いできた。
  2. 第二次大戦後は、ソ連コミュニズム統制下でのユーゴスラビア連邦(第二のユーゴ)が成立するも、ソ連から共産党政権として認められず、チトーのカリスマのもと、中立国、自主管理国として独自の存在感を示す。しかしながら1980年にチトーが亡くなると、これまで抑えられてきたセルビア、クロアチア、ボシュニャク(ムスリム)の民族主義が台頭。ここに一部の過激政治家の煽動もあり、これまでのるつぼの歴史の矛盾、不満が一気に噴き出すことになった。
  3. 旧ユーゴ連邦の崩壊が進む中、1992年4月、ボスニアの独立を巡って民族間で紛争が勃発し、3年半以上にわたり各民族が同共和国全土で覇権を争って戦闘を繰り広げた結果、死傷者20万人、難民・避難民200万人と言われる戦後欧州で最悪の紛争となった。この間、首都サラエボでもセルビア軍に4年近くに渡って包囲され、12千人が死亡、5万人が負傷されたと推定されている。
  4. 1995年12月、デイトン和平合意の成立により戦闘は終息。ボスニアは、ボシュニャク系及びクロアチア系住民が中心の「ボスニア・ヘルツェゴビナ連邦」及びセルビア系住民が中心の「スルプスカ共和国」という2つの主体から構成される一つの国家とされた。それぞれのエンティティが独自の大統領、政府を有するなど、高度に分権化されている。

これで準備万端、以下本番(笑)。

1日目、アブダビからサラエボへ

イード休暇初日の土曜日。13時50分アブダビ発予定のWizz Air便が、前述の通り2時間ほど遅れて出発。機内は満席で、エミラーティ家族と見られる人たちも大勢いた。21時半過ぎにサラエボ空港に到着。コロナ関連での検査、規制は何もなく、誰もマスクもしていない。欧州に入ったことを実感。多少並んだが通常通りパスポートコントロールを抜ける。この間20分ほど。空港前からタクシーをひろい、15分ほど走って市内旧市街のホテルにチェックインしたのが22時過ぎ。とりあえず旧市街をブラブラする。週末でもあり、まだかなりの人込み。

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ホテルで紹介してもらった近くの飯屋でボスニア名物のケバブのパン包みを食べ、さらに近くのパブでビールを飲んでこの日は終了。

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2日目、サラエボ市内歴史散策

この複雑な歴史の街を効率的に散策するには、やはりガイドが必須と思い、朝からローカルガイド会社2社に電話。9時30分発の「FALL OF YUGOSLAVIA、SARAJEVO SIEGE TOUR」(ユーゴスラビアの崩壊・サラエボ包囲戦を巡るツアー)に参加する。市内のサラエボ包囲戦の痕跡を車で回る4時間ほどのツアーで、料金25ユーロ、当日の参加者は俺入れて6名であった。

最初に行ったのが市内東側の小山にある Yellow Bastion(黄色の要塞)。ここからはサラエボの市街地が見渡せ、いかにこの小さな都市が四方山に囲まれ、包囲する側にとっての攻撃が容易であったか説明される。

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中央にある白い部分はお墓であり、一連の紛争で亡くなった多くの市民が埋葬されているという。こうした墓地は市内あちこちで見られる。

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続いて包囲中に爆撃を受けた産婦人科病院。母子含めて100人以上が亡くなった。

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西側郊外にあるトンネル博物館に行く。包囲戦中、物資や負傷者の輸送もままならない中で、800メートル余りのトンネルをボランティアの人たちが掘って、人や物を運んだという。実際に使ったものの展示や、トンネル道を再現、さらに当時の写真などを掲示している。

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これは冬季オリンピックのパネルを活用して包囲戦の状況をまとめたもの。

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市内の目抜き通りには敵方のスナイパーが潜み、多くの市民(女性や子供も多かった)が殺されたという。

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砲撃を受けて焼失した市民ホール(当時図書館)。その後復興された。

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このあとも、爆撃を受けて廃墟と化したホテル、1984年の冬季オリンピックで使ったボブスレー競技コース(包囲戦中は敵が拠点として使っていた)などを見学して終了となった。

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想像以上に悲惨な戦禍のあとに圧倒され、ややぐったりしつつも、お昼をボスニア風どんぶりでお腹を癒し、元気回復。

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午後は同じ会社の市内歴史散策ツアーに参加。第一次大戦のきっかけとなったサラエボ事件の暗殺が実行された場所や旧市街の見どころを見て回る。

このラテン橋の左側にあるビルの前でオーストリア・ハンガリー帝国皇太子夫妻が暗殺された。

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前述した包囲中焼失し、現在復興された市民ホール。

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こうした戦禍を忘れるなというメッセージがあちこちに。

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さらにツアー終了後、個別にボスニア紛争に関する博物館を3つ見学する。

「スレブレニツァの虐殺」として有名な、ボスニア東部の村で起きた8千人規模の連れ去りと虐殺の記録を写真と音声、ビデオで紹介している。

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「人道に対する罪と虐殺に関する博物館」。ボスニア紛争全体の悲劇を実際の物、写真、証言、ビデオ、レプリカ等で詳細に紹介。

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今、まさに足元で起きているウクライナの悲劇を思うとき、以下のメッセージは魂に響く。

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こちらは戦争中に子供時代を送った人たちが創った「戦争の中の子ども博物館」。素朴なコメントが胸を打つ。

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恥ずかしながらほとんど認識していなかったこの悲惨な歴史を全身で浸かり、疲労感とともにある種の充実感で一旦宿に帰る。

一休みして、夕食は市民ホール前にあるボスニア料理店で郷土料理とビール、ワイン、ラキアを堪能する。

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そうして満足して店を出ると、市民ホール正面に元サッカー日本代表のオシムさんの映像が映っている。彼がサラエボ出身であることは来る前に知っていたが、どうしてか不思議だったが翌朝判明する。彼がその日亡くなったのであった。ご冥福をお祈りいたします。

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長い長い一日がこうして終わった。