anezakimanのアブダビ日記

アラブ首長国連邦アブダビ首長国に駐在になりました。そこで出会ったことを綴ります。

完・新型コロナウイルス感染記

Day 6~8

症状もほぼ無くなり、体調は元通り、むしろより元気になった感じ。早朝のフル体操と海岸散歩も復活。夜もビール以外に、ワインやウイスキーをちびちび飲みだす。8日目に受けた在宅PCRは既述通り陰性であった。翌日のPCRが陰性であれば晴れて完全復活だ。自宅隔離が明けた最初の夜は誰と飲みに行こうかなとウキウキし始めていた。

Day 9~10

ところがである、9日目の夕方に受けた自宅 PCR の10日目の早朝に入った結果は POSITIVE。。一瞬頭が真っ白になった。なぜ、どうして、この24時間で俺の体に一体何が起こったのか。。。この後俺は一体どうしたらよいのか。。。。

その際のSNSのリンクにあった24ページもある隔離のためのガイドラインを精読した。

https://www.adphc.gov.ae/-/media/Project/ADPHC/ADPHC/PDF/Isolation-Guide/Isolation-Guide--Eng.pdf

俺に関連する記述としては下記3点。

  1. 感染から7~10日目を過ぎると感染リスクは急速に減少する。
  2. 10日間隔離を終えて症状が無ければ、ウイルスは active でも infectiousでもなくなるため、そこでPCR陽性であったとしても在宅隔離は不要となる。
  3. ただし職場復帰については、PCR陰性を確認後のほうが望ましい(advisable)。

ということで、規制上は翌日から隔離不要ということのようだが、心置きなく職場復帰、社会復帰するためにはやはりPCR陰性が必要である。その日の朝一番、さっそくLifeDxに行ってPCRを受ける。夕方、NEGATIVEの連絡。それでもPCR 2回受けて陰性にならないと ALHOSN は赤のままだ。

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明日、再度受けに行くことを決め、この日は酒も飲まず、夕食を食べて早々に寝る。

Day 11(本日)

24時間間隔があることを確認しながら、朝、再度LifeDXへ。ここで結果を早く受け取るため、ちょっと高くなるがExpress Service を申し込む。

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そうして昼過ぎ、無事に2回連続 NEGATIVE の結果を確保。ALHOSNも久しぶりにグリーンに戻った。

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途中の気まぐれのような POSITIVE は一体何だったのかと毒づきながらも、やれやれである。こうして一波乱あったが感染記の完了となった。以下思ったこと。

  • 無症状感染より明確に症状があったことで、自宅隔離もいさぎよく納得でき、遵守できた。今のところ、特に後遺症も見当たらない。これで抗体が強化されたとしたら良かったかも。
  • 改めてアブダビ首長国保健当局の合理的、徹底かつ丁寧な対応に感じ入った。感染患者に対するフォローとして、在宅 PCR、2日に一回ほどの電話でのチェック、きめ細かく充実した隔離ガイドラインなど。隔離明け初日には、正式な End of isolation certificate までいただいた。
  • でもやっぱり病気になって家で一人で過ごすのは心細くて寂しい。

さっそく隔離明けの本日、友だちとホテルのレストランでビール、ワインを楽しみ、最後にNIRIでお寿司を食べて一人快気祝いをした。

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お疲れ様でした。

アラブ首長国連邦のリーダー交代

昨日、当局から自宅に派遣されたスタッフにより受けたPCR結果が無事陰性となり、本日再度受けて陰性であれば、明日からでも娑婆に出れそう。よしよし。

さて、そうした隔離生活を送っていた最中、この国の大統領、Sheikh Khalfa bin Sayed Al Nahyan(文字通り訳せばナヒヤン部族出身、お父さんがSayed、名前がKhalifa の部族長)が逝去されたと報じられた。

1948年生まれ、享年73歳。偉大なUAE建国の父、Sheikh Zayed bin Sultan Al Nayhan の長男として生まれ、Zayed初代UAE大統領が亡くなられた2004年に第二代UAE大統領に就任、現在まで18年近く大統領職を勤められた。

しかしながら、2014年に脳卒中を患って手術を受け、俺がこの国の事業に本格的に係わり始めた2017年前後には、すでに病が重くなってほとんど表舞台に出ることはなかった。エミラーティから漏れきいたところによると、お酒がお好きだったそうで、偉大なる父の跡を継いで大いなるプレッシャーがあったのではと勝手に推測している。

もちろん、Zayed初代大統領の偉大な功績を引き続き、ここまでアラブ首長国連邦の発展に尽くされてきたことは論を待たない。この国の繁栄に預からせてもらっている一人のエクスパッツとして、心よりご冥福をお祈りしたい。ちなみにこの逝去に際して、UAEとして40日間の喪服期間と至近3日間が公休日(土日月)となった。

その後継大統領はすでに規定路線であるが、アブダビ首長国皇太子であった Sheikh Mohamed bin Zayed Al Nahyan(通称MBZ)である。逝去の翌日、さっそく発表された。一応形式上は、7つの首長国の首長(Ruler)からなる Supreme Council(最高評議会)で選ぶことになっているが、この国の大統領はアブダビ首長、副大統領兼首相はドバイ首長がなることになっていて、満場一致でMBZが選ばれている。

UAE leaders in Abu Dhabi

1961年生まれの61歳。すでに2015年前後から実質大統領として内外で活躍されており、サウジアラビアの実質リーダーである皇太子 Sheikh Mohammed Bin Salman Bin Abdul Aziz(通称MBS)と昵懇の仲とされ、 GCC連合の政策を一緒にけん引してきた。最近のイスラエルとの国交正常化や、周辺国との関係強化など、優れた外交感覚を持つとされる。

また経済発展の礎として人材教育に力を入れていて、日本的道徳教育に関心を持って日本人幼稚園、日本人学校にUAEの子供を入れる施策をリードした。人間としても魅力的なリーダーとして、国民に絶大な人気を誇る。

実は俺も赴任後すぐの2017年冬、この方に謁見する幸運に恵まれ、実際に声をかけてもらって感動した記憶がよみがえる。

あるお方 - anezakimanのアブダビ日記

これは俺のお宝写真となっている。

名実とともにこの国の新たなリーダーの誕生にお祝い申し上げるとともに、更なる発展に期待し、俺も微力ながらその一助となりたいものだ。

ところで、MBZ後継のアブダビ皇太子(次の大統領候補)に関心が行く。候補としてZayed元大統領の子供(MBZの兄弟)がまだ何人かいる一方で、MBZのお子さんがなるという話もある。この辺りは、Nahyan部族内での激しい権力闘争があるとも言われている。発表を待ちたい。

新型コロナウイルス感染記

楽しい旅行記の次は一転して感染記。。そう、ついにかかってしまいました、新型コロナウイルス。。自分は陽性になる気はしないと豪語してきたが。。。

Day 1

週末の朝。目覚めるといつもと違って明らかに体がだるい。超久しぶりに体温計を引っ張り出して測ったら37.5度。平熱は36度前後なので俺にしてはかなりの高熱。咳もある。これは風邪に違いないと、平日の疲れもあり、何もせずに寝て休むことにした。

午後になっても体調はすぐれず、再度体温測ったら38.6度。これはまずいと直感し、コロナの可能性も頭をよぎった。PCRだけ受けようかとも思ったが、症状もあるし病院で診てもらうことにして、市内の病院にアポなしで向かった。そこで体温、血圧、血液検査、PCR検査を受け、診察を受ける。特に何も説明されずに、お尻に注射を打たれ、2種類の薬(解熱剤、鎮痛剤)をもらって帰宅する。これで熱も下がってやや落ち着いた。飯を作る気がしなかったので、和食弁当持ち帰りで家で親子丼を食べて寝る。

Day 2

朝9時14分、SNS経由でPCR検査結果ポジティブの連絡が入る。ああ、ついになっちゃったかーという第一印象。どのような経路で感染したか、ちょっと考えてみる。

ほとんどマスク無しで過ごしたボスニア・ヘルツェゴビナ旅行中での感染の可能性はあるが、戻ってから4日ほども経っての症状発生でこれはありか。またボスニア後にドバイに友人と会食に行ったので、ドバイかもしれない。

連休中の外出続き、会食続きで疲れ気味だったかも。さらにちょうどファイザー2回接種後6か月が経った後で、そろそろブースター打とうかというタイミングであり、ワクチン効果が切れた(薄れた)のかもしれない。しょせん真実は分からないけど。

保健当局からのSNSによれば、今回が一回目か二回目の陽性、かつ症状あり、かつ慢性疾患持ちか年齢50歳以上のどちらか、この3点に該当する人は、コロナ指定病院(COVID-19 Prime Assessment Center)に来いとの指示。

俺は今回が最初、その時点では体調はだいぶ良くなってきたが症状は残っており、そして50歳以上に該当するので、出頭要である。Mafraq HospitalかAl Mushrif Wedding Hallのどちらかとあったので、病院が良かろうと前者に行ったが閉まっていた。日曜日だからなのか、対象患者が減ってるからなのか不明だったが、次に向かった Wedding Hall もガラガラだったので、対象者が減ってはいるんだろう。

昼過ぎに体育館のような場所に着く。以下の紙をもらい、これに従い順にプロセスを経ながら館内を移動していく。

登録、血圧等の基本データ取りとPCR検査、医師の問診、薬処方、隔離の説明と進んでいった。医師の問診では、日本人ですか、珍しいですね、あなたが初めてですよと言われた。こんなとこまで来る日本人は俺だけか。。

薬をたくさんもらい、隔離の説明を受けた。アパートの自宅で一人住まいというと、自宅にいて家から出てはいけません、あなたが一人外に出るだけで12千人の人がリスクとなります(何らかの統計的知見らしい)、くれぐれも出ないようにと言われ、もしかしてリストバンド付けられるかと思ったが(入口にリストバンド脱着はこちらへという看板を見かけた)、それはなかった。

隔離期間は感染日(PCRを受けた日)からその日を含めて10日間。8日目と10日目にPCRを受け、両方陰性であればそれで治癒となり開放とのこと。なお、PCRは外で受けるのではなく、スタッフが自宅まで来るとのこと。徹底している。

この一連のプロセス、ここに着いて30分ほどか。ガラガラだったこともあるが、相変わらずこの国の効率の良さに感心した。もちろん完全無料である。

体調自体はだいぶ良くなっていたが、さすがに疲労感を覚えつつ、関係者に連絡する。少数の濃厚接触者の可能性があった方にお詫びも含めて報告(幸い皆さん問題なかった)。仕事は体調が悪化しなければ家で出来そうだったので、自宅勤務を予定。

Day 3~5

体温は完全に平熱に戻ったが、咳と喉の痛みが残っている。間が悪いことに今週は俺が仕切る四半期に一回の大会議があり、その事前も含めていくつかの重要な会議があった。体調が悪ければ代役を立てることも考えたが、幸い声の調子が少しおかしいくらいで業務には支障なさそうであった。

結果的には月、火、水と会議をTeams経由無事終え、やれやれであった。その他の打ち合わせも含めて、コロナ感染下でもほぼ平常通り業務をこなすことが出来ていると思う。

食事は、初日に食材を買い込んでいたので、その自炊がメイン。免疫力回復強化に力点。

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たまにM邸割烹のゴージャスランチ弁当をいただく。

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薬は5種類もらって、毎日決められた通りに服用する。ビタミンC、鎮痛剤、解熱剤、のどあめ、うがい薬、鼻用スプレーなど。

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もちろん自宅から一歩も出ず、完全療養に努め、体操も散歩もせず、アルコールも無し。さすがにDay 5になってから、誰もいない早朝の海岸で30分程度の散歩だけさせていただき、ビール500mlだけちょっぴり(苦笑)。

Day 5現在、咳以外はほぼ完全回復。もちろん油断せずに自宅でおとなしく過ごし、元気に治癒して、早く娑婆に出たいものであります。

ボスニア・ヘルツェゴビナ共和国旅行記・後編

4日目、サラエボ最終日

モスタル早朝6時36分発、サラエボ9時前着の列車で戻る。便数が少ないからか(1日朝と夕の2便しかない)、時刻はほぼ正確であった。そしてこの日の18時10分発サラエボの便でアブダビに戻ることになっていて、実質半日強のサラエボ最終日となる。

まずはサラエボ駅前にある、この国で最も高いビル、アヴァズ・ツイスト・タワーの36階にある展望台に上ってみる。

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ちょっと曇っていて見づらいが、この写真の地区にはモスク、カトリック教会、セルビア正教徒教会、シナゴーグが入っており、多宗教のこの国を象徴している。

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そこからちょっと歩くと、トラムも走る幅広い通りがある。これが紛争中スナイパー通りだったところ。

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さて、この日のメインとしてまだ行けてなかった博物館系(国立博物館、サラエボ博物館、ユダヤ博物館など)の見学を考えていたが、本日はパブリックホリディですべて閉館していることが判明した。。いったん荷物を預けに1-2日目に泊まったホテルの気さくなお姉さんに相談すると、ぜひケーブルカーに乗れと。ということで、計画変更して行ってみる。

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ケーブルカー頂点からいくつかの山道コースを散策できるのであった。これは嬉しい。

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ということで、再び豊かな自然にまみれる。

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2時間ほど散策して心も体もリフレッシュ後、ケーブルカーで下山。その近くにあったムスリムの集団墓地に寄ってお参りさせていただく。

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帰りの飛行機が再び1時間ほど遅れるとの連絡がメールで入り、それではとゆっくり最後のボスニア料理とお酒を堪能。

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さらに毎日行っていたパブに挨拶がてら最後の一杯(笑)。

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夕陽を見ながら、名残惜しくも機上の人になるのであった。

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まとめ・感想編

これほど濃密な時間を過ごした旅があっただろうかと思うような4日間であり、いろいろな意味で魅力的・刺激的なボスニア・ヘルツェゴビナ共和国であった。

まずは戦禍を中心とした歴史の重み、過酷さ。長い歴史を経てきた複雑多様な国家、民族、宗教の相克。それらが災いとなって凝縮して出てしまったようなボスニア紛争、そしてその渦中でのサラエボ包囲戦。究極の状況下での人間像(良い面も悪い面も)が実物として、映像として、記録として目の前に次々と現れる。歴史と言ったが、これがわずか30年前に起きたという事実。そしてこの歴史的惨禍を忘れるなという国全体のメッセージ。今ほど胸に響くときは無いだろう。

2つ目は豊かな自然。山があり、川があり、湖があり、橋があり、それらが長い歴史と調和しているものもあれば、手つかずのものもあり、いずれもなんとも言えず美しい。夏は暑く、冬は雪が降るという日本と同じような四季を持つ風土、気候。

そしてこうした歴史、風土、気候から生まれる美味しい料理、お酒、そして多様な人々。今回、3人の男性に会って少し話をすることができた。23歳のサラエボのガイド、アハメッド氏。この国の名門大学、サラエボ大学の博士課程で考古学、歴史を学ぶ学生。

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30代前半のモスタルガイドのアラン氏。

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土木工学を修了して、現在はスタートアップ系の企業に勤務。そしてモスタルで郊外に一緒に行ったタクシードライバー氏、40歳前後。

彼らが語ってくれたのは、ボスニア紛争を実体験した両親や祖父母からの話。例えば包囲中の食糧不足、水不足のため、自宅の狭い庭で作物を作ったり、洗濯するのに近くの急斜面の川に注意深く降りて洗濯し、冬は手があかぎれて大変だったこと。また食料を求めて長蛇の列で並んでいた際、祖父は諦めて帰ったが残った叔父が砲撃を受けて亡くなったこと。

現在については、3人とも異口同音に現在の体制(実質ムスリム系・カトリック系のボスニア・ヘルツェゴビナ連邦と、セルビア系のスルプスカ共和国の2つあり、別の国であること)の非効率性、身内重視の政治的汚職が続いていることに不満を持ち、国の行く末を憂いている。一方で最若手のアハメッド氏は、それでも未来は明るいと信じていること。

以上、この国で見て聴いて感じたことを消化するのに、もう少し時間がかかりそう。そしてこの国の希望に満ちた未来を信じたいものだ。

ボスニア・ヘルツェゴビナ共和国旅行記・中編

3日目、モスタル訪問

サラエボから南西へ130キロほど、クロアチアとの国境に近いモスタルを訪問した。ここはオスマン帝国占領下の16世紀に建設されたスターリ・モスト(古い橋という意味)が有名で、世界遺産となっている。この橋もボスニア紛争中の1993年にクロアチア軍に破壊されたが、ユネスコの支援で2004年に再建された。こうした歴史物とともに、この日の楽しみはボスニアの豊かな自然を楽しむことである。

朝7時15分サラエボ発の列車に乗り込む。料金は往復で20マルカちょっと(10ユーロ、マルカは現地通貨だがユーロと固定レートで2マルカ=約1ユーロ)とお安く、車内もまあまま。モスタルまで2時間ちょっとの鉄道の旅である。

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まずは列車車窓からの風景。川沿いを走り、起伏に富んだ地形に癒される。帰りの早朝の列車からの幻想的な風景。

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モスタル駅に着いたのが9時30分。ホテルに荷物だけ預けに行ったら、日本人ですねと言って、親切にも無料で早期チェックインさせてくれる。気分よく市内散策に向かうが、今回もやはり現地のガイドを頼む。1人だけの突然依頼だったので40ユーロとややお高かったがやむなし。

まずはお昼をボスニア料理へ。再びパン包み肉 with ビール。

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アランというガイドと合流。彼にいろいろと案内、説明してもらう。やはり川と橋が印象深い。

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こちらが世界遺産のスターりモスト。

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ここにも戦禍跡。

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このビルからスナイパーが多くの人を射殺したことから、スナイパービルと呼ばれていたと。

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ガイド終了後、現地赤ワインで一休みし、

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タクシーで郊外に出てみる。ポチテリという地域。オスマン帝国時代の古い町で、丘の斜面に沿って建物が並ぶ。左側の建物はモスク。

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さらにブドウ畑を見ながら西へ。この辺りがこの国のワインの一大産地。

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森の中からわきでるように流れる大瀑布、クラヴィツァの滝。

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モスタル市街に戻り、再び伝統的ボスニアレストランでディナー。

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ハーブベースのラキアでしめる。

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自然の恵みをたっぷりと浴びて、3日目も大満足のうちに終わったのであった。

 

ボスニア・ヘルツェゴビナ共和国旅行記・前編

イード休暇で初めて中欧の国に足を踏み入れた。旧ユーゴスラビアの中核国であったボスニア・ヘルツェゴビナ共和国(以下ボスニアと略す)である。きっかけは最近の俺のお気に入りLCC、Wizz Airのアブダビからの直行便の行先に上記国の首都であるサラエボがあり、そういえば中欧、あるいはギリシャ以外のバルカン半島の国に行ったことがなく、片道5時間程度のフライトということで、トライしてみることにした。

準備編

サラエボといえば、第一次世界大戦のきっかけとなったオーストリア・ハンガリー帝国の皇位継承者の皇太子夫妻が暗殺されたサラエボ事件と、1984年に開催されたサラエボ冬季オリンピックくらいしか馴染みがない。そこでせっかく行くのだからと、いつもの『地球の歩き方』(中欧編として14か国をカバー、とても有用)に加えて、出発直前に『ユーゴスラヴィア現代史・新版』(柴宜弘、岩波新書)をキンドルで購入した。行きのフライト出発時間が幸いにも2時間遅れたため(苦笑)、サラエボの空港に着くころには読了していた。

これらを踏まえて、俺なりにこの国の歴史を概観すると、まさに民族と宗教の入り乱れた複雑多様な歴史と言える。

  1. 4世紀末のローマ帝国分裂以降、ビザンツ帝国、ゲルマン民族移動後の諸王国、南スラブ民族進出と諸王国、オスマン帝国、オーストラリア・ハンガリー帝国、第一次大戦後の「第一ユーゴ」と称される南スラブ初の統一国家王国と、東西の様々な民族が入り乱れて戦い、支配してきた。この間宗教的にもキリスト教カトリック、同正教(セルビアンオーソドックス)、イスラム教、ユダヤ教が入り混じって、民族と宗教が混然一体となって歴史を紡いできた。
  2. 第二次大戦後は、ソ連コミュニズム統制下でのユーゴスラビア連邦(第二のユーゴ)が成立するも、ソ連から共産党政権として認められず、チトーのカリスマのもと、中立国、自主管理国として独自の存在感を示す。しかしながら1980年にチトーが亡くなると、これまで抑えられてきたセルビア、クロアチア、ボシュニャク(ムスリム)の民族主義が台頭。ここに一部の過激政治家の煽動もあり、これまでのるつぼの歴史の矛盾、不満が一気に噴き出すことになった。
  3. 旧ユーゴ連邦の崩壊が進む中、1992年4月、ボスニアの独立を巡って民族間で紛争が勃発し、3年半以上にわたり各民族が同共和国全土で覇権を争って戦闘を繰り広げた結果、死傷者20万人、難民・避難民200万人と言われる戦後欧州で最悪の紛争となった。この間、首都サラエボでもセルビア軍に4年近くに渡って包囲され、12千人が死亡、5万人が負傷されたと推定されている。
  4. 1995年12月、デイトン和平合意の成立により戦闘は終息。ボスニアは、ボシュニャク系及びクロアチア系住民が中心の「ボスニア・ヘルツェゴビナ連邦」及びセルビア系住民が中心の「スルプスカ共和国」という2つの主体から構成される一つの国家とされた。それぞれのエンティティが独自の大統領、政府を有するなど、高度に分権化されている。

これで準備万端、以下本番(笑)。

1日目、アブダビからサラエボへ

イード休暇初日の土曜日。13時50分アブダビ発予定のWizz Air便が、前述の通り2時間ほど遅れて出発。機内は満席で、エミラーティ家族と見られる人たちも大勢いた。21時半過ぎにサラエボ空港に到着。コロナ関連での検査、規制は何もなく、誰もマスクもしていない。欧州に入ったことを実感。多少並んだが通常通りパスポートコントロールを抜ける。この間20分ほど。空港前からタクシーをひろい、15分ほど走って市内旧市街のホテルにチェックインしたのが22時過ぎ。とりあえず旧市街をブラブラする。週末でもあり、まだかなりの人込み。

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ホテルで紹介してもらった近くの飯屋でボスニア名物のケバブのパン包みを食べ、さらに近くのパブでビールを飲んでこの日は終了。

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2日目、サラエボ市内歴史散策

この複雑な歴史の街を効率的に散策するには、やはりガイドが必須と思い、朝からローカルガイド会社2社に電話。9時30分発の「FALL OF YUGOSLAVIA、SARAJEVO SIEGE TOUR」(ユーゴスラビアの崩壊・サラエボ包囲戦を巡るツアー)に参加する。市内のサラエボ包囲戦の痕跡を車で回る4時間ほどのツアーで、料金25ユーロ、当日の参加者は俺入れて6名であった。

最初に行ったのが市内東側の小山にある Yellow Bastion(黄色の要塞)。ここからはサラエボの市街地が見渡せ、いかにこの小さな都市が四方山に囲まれ、包囲する側にとっての攻撃が容易であったか説明される。

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中央にある白い部分はお墓であり、一連の紛争で亡くなった多くの市民が埋葬されているという。こうした墓地は市内あちこちで見られる。

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続いて包囲中に爆撃を受けた産婦人科病院。母子含めて100人以上が亡くなった。

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西側郊外にあるトンネル博物館に行く。包囲戦中、物資や負傷者の輸送もままならない中で、800メートル余りのトンネルをボランティアの人たちが掘って、人や物を運んだという。実際に使ったものの展示や、トンネル道を再現、さらに当時の写真などを掲示している。

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これは冬季オリンピックのパネルを活用して包囲戦の状況をまとめたもの。

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市内の目抜き通りには敵方のスナイパーが潜み、多くの市民(女性や子供も多かった)が殺されたという。

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砲撃を受けて焼失した市民ホール(当時図書館)。その後復興された。

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このあとも、爆撃を受けて廃墟と化したホテル、1984年の冬季オリンピックで使ったボブスレー競技コース(包囲戦中は敵が拠点として使っていた)などを見学して終了となった。

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想像以上に悲惨な戦禍のあとに圧倒され、ややぐったりしつつも、お昼をボスニア風どんぶりでお腹を癒し、元気回復。

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午後は同じ会社の市内歴史散策ツアーに参加。第一次大戦のきっかけとなったサラエボ事件の暗殺が実行された場所や旧市街の見どころを見て回る。

このラテン橋の左側にあるビルの前でオーストリア・ハンガリー帝国皇太子夫妻が暗殺された。

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前述した包囲中焼失し、現在復興された市民ホール。

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こうした戦禍を忘れるなというメッセージがあちこちに。

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さらにツアー終了後、個別にボスニア紛争に関する博物館を3つ見学する。

「スレブレニツァの虐殺」として有名な、ボスニア東部の村で起きた8千人規模の連れ去りと虐殺の記録を写真と音声、ビデオで紹介している。

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「人道に対する罪と虐殺に関する博物館」。ボスニア紛争全体の悲劇を実際の物、写真、証言、ビデオ、レプリカ等で詳細に紹介。

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今、まさに足元で起きているウクライナの悲劇を思うとき、以下のメッセージは魂に響く。

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こちらは戦争中に子供時代を送った人たちが創った「戦争の中の子ども博物館」。素朴なコメントが胸を打つ。

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恥ずかしながらほとんど認識していなかったこの悲惨な歴史を全身で浸かり、疲労感とともにある種の充実感で一旦宿に帰る。

一休みして、夕食は市民ホール前にあるボスニア料理店で郷土料理とビール、ワイン、ラキアを堪能する。

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そうして満足して店を出ると、市民ホール正面に元サッカー日本代表のオシムさんの映像が映っている。彼がサラエボ出身であることは来る前に知っていたが、どうしてか不思議だったが翌朝判明する。彼がその日亡くなったのであった。ご冥福をお祈りいたします。

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長い長い一日がこうして終わった。

ラマダーン簡易断食満了

2022年のラマダーンの正式な終了は、明日か明後日、月か見えるかどうかで決まるらしいので、まだ確定していない。でも俺のラマダーン月の簡易断食は本日で終わりにした。最終的には連続14日間の断食となった。ご苦労様でありました。

本日は朝食も抜き、夕方、お腹をペコペコにして向かったのはお馴染み、Panda Bao Bao である。やはり最後はここの重慶小麺でしめたかった。

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余りにも美味であったため、スープ含めて完食してしまいました。。

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そうして明日からEid休暇に入る。これも月の見えるタイミングで休暇が5月3日までか4日までかが決まるため、いつまでの休暇かは今は分からない。なんとも不思議な感じなのだが仕方ない。

いずれにせよ、俺は明日から今年2度目のWeekend Bullet Back Packer の旅に出かける。今後は前回よりちょっと遠い旅になる。全身好奇心いっぱいにして、歩き回りたいね。