anezakimanのアブダビ日記

アラブ首長国連邦アブダビ首長国に駐在になりました。そこで出会ったことを綴ります。

ボスニア・ヘルツェゴビナ共和国旅行記・後編

4日目、サラエボ最終日

モスタル早朝6時36分発、サラエボ9時前着の列車で戻る。便数が少ないからか(1日朝と夕の2便しかない)、時刻はほぼ正確であった。そしてこの日の18時10分発サラエボの便でアブダビに戻ることになっていて、実質半日強のサラエボ最終日となる。

まずはサラエボ駅前にある、この国で最も高いビル、アヴァズ・ツイスト・タワーの36階にある展望台に上ってみる。

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ちょっと曇っていて見づらいが、この写真の地区にはモスク、カトリック教会、セルビア正教徒教会、シナゴーグが入っており、多宗教のこの国を象徴している。

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そこからちょっと歩くと、トラムも走る幅広い通りがある。これが紛争中スナイパー通りだったところ。

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さて、この日のメインとしてまだ行けてなかった博物館系(国立博物館、サラエボ博物館、ユダヤ博物館など)の見学を考えていたが、本日はパブリックホリディですべて閉館していることが判明した。。いったん荷物を預けに1-2日目に泊まったホテルの気さくなお姉さんに相談すると、ぜひケーブルカーに乗れと。ということで、計画変更して行ってみる。

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ケーブルカー頂点からいくつかの山道コースを散策できるのであった。これは嬉しい。

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ということで、再び豊かな自然にまみれる。

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2時間ほど散策して心も体もリフレッシュ後、ケーブルカーで下山。その近くにあったムスリムの集団墓地に寄ってお参りさせていただく。

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帰りの飛行機が再び1時間ほど遅れるとの連絡がメールで入り、それではとゆっくり最後のボスニア料理とお酒を堪能。

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さらに毎日行っていたパブに挨拶がてら最後の一杯(笑)。

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夕陽を見ながら、名残惜しくも機上の人になるのであった。

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まとめ・感想編

これほど濃密な時間を過ごした旅があっただろうかと思うような4日間であり、いろいろな意味で魅力的・刺激的なボスニア・ヘルツェゴビナ共和国であった。

まずは戦禍を中心とした歴史の重み、過酷さ。長い歴史を経てきた複雑多様な国家、民族、宗教の相克。それらが災いとなって凝縮して出てしまったようなボスニア紛争、そしてその渦中でのサラエボ包囲戦。究極の状況下での人間像(良い面も悪い面も)が実物として、映像として、記録として目の前に次々と現れる。歴史と言ったが、これがわずか30年前に起きたという事実。そしてこの歴史的惨禍を忘れるなという国全体のメッセージ。今ほど胸に響くときは無いだろう。

2つ目は豊かな自然。山があり、川があり、湖があり、橋があり、それらが長い歴史と調和しているものもあれば、手つかずのものもあり、いずれもなんとも言えず美しい。夏は暑く、冬は雪が降るという日本と同じような四季を持つ風土、気候。

そしてこうした歴史、風土、気候から生まれる美味しい料理、お酒、そして多様な人々。今回、3人の男性に会って少し話をすることができた。23歳のサラエボのガイド、アハメッド氏。この国の名門大学、サラエボ大学の博士課程で考古学、歴史を学ぶ学生。

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30代前半のモスタルガイドのアラン氏。

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土木工学を修了して、現在はスタートアップ系の企業に勤務。そしてモスタルで郊外に一緒に行ったタクシードライバー氏、40歳前後。

彼らが語ってくれたのは、ボスニア紛争を実体験した両親や祖父母からの話。例えば包囲中の食糧不足、水不足のため、自宅の狭い庭で作物を作ったり、洗濯するのに近くの急斜面の川に注意深く降りて洗濯し、冬は手があかぎれて大変だったこと。また食料を求めて長蛇の列で並んでいた際、祖父は諦めて帰ったが残った叔父が砲撃を受けて亡くなったこと。

現在については、3人とも異口同音に現在の体制(実質ムスリム系・カトリック系のボスニア・ヘルツェゴビナ連邦と、セルビア系のスルプスカ共和国の2つあり、別の国であること)の非効率性、身内重視の政治的汚職が続いていることに不満を持ち、国の行く末を憂いている。一方で最若手のアハメッド氏は、それでも未来は明るいと信じていること。

以上、この国で見て聴いて感じたことを消化するのに、もう少し時間がかかりそう。そしてこの国の希望に満ちた未来を信じたいものだ。

ボスニア・ヘルツェゴビナ共和国旅行記・中編

3日目、モスタル訪問

サラエボから南西へ130キロほど、クロアチアとの国境に近いモスタルを訪問した。ここはオスマン帝国占領下の16世紀に建設されたスターリ・モスト(古い橋という意味)が有名で、世界遺産となっている。この橋もボスニア紛争中の1993年にクロアチア軍に破壊されたが、ユネスコの支援で2004年に再建された。こうした歴史物とともに、この日の楽しみはボスニアの豊かな自然を楽しむことである。

朝7時15分サラエボ発の列車に乗り込む。料金は往復で20マルカちょっと(10ユーロ、マルカは現地通貨だがユーロと固定レートで2マルカ=約1ユーロ)とお安く、車内もまあまま。モスタルまで2時間ちょっとの鉄道の旅である。

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まずは列車車窓からの風景。川沿いを走り、起伏に富んだ地形に癒される。帰りの早朝の列車からの幻想的な風景。

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モスタル駅に着いたのが9時30分。ホテルに荷物だけ預けに行ったら、日本人ですねと言って、親切にも無料で早期チェックインさせてくれる。気分よく市内散策に向かうが、今回もやはり現地のガイドを頼む。1人だけの突然依頼だったので40ユーロとややお高かったがやむなし。

まずはお昼をボスニア料理へ。再びパン包み肉 with ビール。

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アランというガイドと合流。彼にいろいろと案内、説明してもらう。やはり川と橋が印象深い。

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こちらが世界遺産のスターりモスト。

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ここにも戦禍跡。

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このビルからスナイパーが多くの人を射殺したことから、スナイパービルと呼ばれていたと。

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ガイド終了後、現地赤ワインで一休みし、

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タクシーで郊外に出てみる。ポチテリという地域。オスマン帝国時代の古い町で、丘の斜面に沿って建物が並ぶ。左側の建物はモスク。

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さらにブドウ畑を見ながら西へ。この辺りがこの国のワインの一大産地。

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森の中からわきでるように流れる大瀑布、クラヴィツァの滝。

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モスタル市街に戻り、再び伝統的ボスニアレストランでディナー。

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ハーブベースのラキアでしめる。

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自然の恵みをたっぷりと浴びて、3日目も大満足のうちに終わったのであった。

 

ボスニア・ヘルツェゴビナ共和国旅行記・前編

イード休暇で初めて中欧の国に足を踏み入れた。旧ユーゴスラビアの中核国であったボスニア・ヘルツェゴビナ共和国(以下ボスニアと略す)である。きっかけは最近の俺のお気に入りLCC、Wizz Airのアブダビからの直行便の行先に上記国の首都であるサラエボがあり、そういえば中欧、あるいはギリシャ以外のバルカン半島の国に行ったことがなく、片道5時間程度のフライトということで、トライしてみることにした。

準備編

サラエボといえば、第一次世界大戦のきっかけとなったオーストリア・ハンガリー帝国の皇位継承者の皇太子夫妻が暗殺されたサラエボ事件と、1984年に開催されたサラエボ冬季オリンピックくらいしか馴染みがない。そこでせっかく行くのだからと、いつもの『地球の歩き方』(中欧編として14か国をカバー、とても有用)に加えて、出発直前に『ユーゴスラヴィア現代史・新版』(柴宜弘、岩波新書)をキンドルで購入した。行きのフライト出発時間が幸いにも2時間遅れたため(苦笑)、サラエボの空港に着くころには読了していた。

これらを踏まえて、俺なりにこの国の歴史を概観すると、まさに民族と宗教の入り乱れた複雑多様な歴史と言える。

  1. 4世紀末のローマ帝国分裂以降、ビザンツ帝国、ゲルマン民族移動後の諸王国、南スラブ民族進出と諸王国、オスマン帝国、オーストラリア・ハンガリー帝国、第一次大戦後の「第一ユーゴ」と称される南スラブ初の統一国家王国と、東西の様々な民族が入り乱れて戦い、支配してきた。この間宗教的にもキリスト教カトリック、同正教(セルビアンオーソドックス)、イスラム教、ユダヤ教が入り混じって、民族と宗教が混然一体となって歴史を紡いできた。
  2. 第二次大戦後は、ソ連コミュニズム統制下でのユーゴスラビア連邦(第二のユーゴ)が成立するも、ソ連から共産党政権として認められず、チトーのカリスマのもと、中立国、自主管理国として独自の存在感を示す。しかしながら1980年にチトーが亡くなると、これまで抑えられてきたセルビア、クロアチア、ボシュニャク(ムスリム)の民族主義が台頭。ここに一部の過激政治家の煽動もあり、これまでのるつぼの歴史の矛盾、不満が一気に噴き出すことになった。
  3. 旧ユーゴ連邦の崩壊が進む中、1992年4月、ボスニアの独立を巡って民族間で紛争が勃発し、3年半以上にわたり各民族が同共和国全土で覇権を争って戦闘を繰り広げた結果、死傷者20万人、難民・避難民200万人と言われる戦後欧州で最悪の紛争となった。この間、首都サラエボでもセルビア軍に4年近くに渡って包囲され、12千人が死亡、5万人が負傷されたと推定されている。
  4. 1995年12月、デイトン和平合意の成立により戦闘は終息。ボスニアは、ボシュニャク系及びクロアチア系住民が中心の「ボスニア・ヘルツェゴビナ連邦」及びセルビア系住民が中心の「スルプスカ共和国」という2つの主体から構成される一つの国家とされた。それぞれのエンティティが独自の大統領、政府を有するなど、高度に分権化されている。

これで準備万端、以下本番(笑)。

1日目、アブダビからサラエボへ

イード休暇初日の土曜日。13時50分アブダビ発予定のWizz Air便が、前述の通り2時間ほど遅れて出発。機内は満席で、エミラーティ家族と見られる人たちも大勢いた。21時半過ぎにサラエボ空港に到着。コロナ関連での検査、規制は何もなく、誰もマスクもしていない。欧州に入ったことを実感。多少並んだが通常通りパスポートコントロールを抜ける。この間20分ほど。空港前からタクシーをひろい、15分ほど走って市内旧市街のホテルにチェックインしたのが22時過ぎ。とりあえず旧市街をブラブラする。週末でもあり、まだかなりの人込み。

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ホテルで紹介してもらった近くの飯屋でボスニア名物のケバブのパン包みを食べ、さらに近くのパブでビールを飲んでこの日は終了。

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2日目、サラエボ市内歴史散策

この複雑な歴史の街を効率的に散策するには、やはりガイドが必須と思い、朝からローカルガイド会社2社に電話。9時30分発の「FALL OF YUGOSLAVIA、SARAJEVO SIEGE TOUR」(ユーゴスラビアの崩壊・サラエボ包囲戦を巡るツアー)に参加する。市内のサラエボ包囲戦の痕跡を車で回る4時間ほどのツアーで、料金25ユーロ、当日の参加者は俺入れて6名であった。

最初に行ったのが市内東側の小山にある Yellow Bastion(黄色の要塞)。ここからはサラエボの市街地が見渡せ、いかにこの小さな都市が四方山に囲まれ、包囲する側にとっての攻撃が容易であったか説明される。

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中央にある白い部分はお墓であり、一連の紛争で亡くなった多くの市民が埋葬されているという。こうした墓地は市内あちこちで見られる。

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続いて包囲中に爆撃を受けた産婦人科病院。母子含めて100人以上が亡くなった。

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西側郊外にあるトンネル博物館に行く。包囲戦中、物資や負傷者の輸送もままならない中で、800メートル余りのトンネルをボランティアの人たちが掘って、人や物を運んだという。実際に使ったものの展示や、トンネル道を再現、さらに当時の写真などを掲示している。

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これは冬季オリンピックのパネルを活用して包囲戦の状況をまとめたもの。

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市内の目抜き通りには敵方のスナイパーが潜み、多くの市民(女性や子供も多かった)が殺されたという。

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砲撃を受けて焼失した市民ホール(当時図書館)。その後復興された。

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このあとも、爆撃を受けて廃墟と化したホテル、1984年の冬季オリンピックで使ったボブスレー競技コース(包囲戦中は敵が拠点として使っていた)などを見学して終了となった。

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想像以上に悲惨な戦禍のあとに圧倒され、ややぐったりしつつも、お昼をボスニア風どんぶりでお腹を癒し、元気回復。

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午後は同じ会社の市内歴史散策ツアーに参加。第一次大戦のきっかけとなったサラエボ事件の暗殺が実行された場所や旧市街の見どころを見て回る。

このラテン橋の左側にあるビルの前でオーストリア・ハンガリー帝国皇太子夫妻が暗殺された。

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前述した包囲中焼失し、現在復興された市民ホール。

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こうした戦禍を忘れるなというメッセージがあちこちに。

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さらにツアー終了後、個別にボスニア紛争に関する博物館を3つ見学する。

「スレブレニツァの虐殺」として有名な、ボスニア東部の村で起きた8千人規模の連れ去りと虐殺の記録を写真と音声、ビデオで紹介している。

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「人道に対する罪と虐殺に関する博物館」。ボスニア紛争全体の悲劇を実際の物、写真、証言、ビデオ、レプリカ等で詳細に紹介。

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今、まさに足元で起きているウクライナの悲劇を思うとき、以下のメッセージは魂に響く。

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こちらは戦争中に子供時代を送った人たちが創った「戦争の中の子ども博物館」。素朴なコメントが胸を打つ。

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恥ずかしながらほとんど認識していなかったこの悲惨な歴史を全身で浸かり、疲労感とともにある種の充実感で一旦宿に帰る。

一休みして、夕食は市民ホール前にあるボスニア料理店で郷土料理とビール、ワイン、ラキアを堪能する。

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そうして満足して店を出ると、市民ホール正面に元サッカー日本代表のオシムさんの映像が映っている。彼がサラエボ出身であることは来る前に知っていたが、どうしてか不思議だったが翌朝判明する。彼がその日亡くなったのであった。ご冥福をお祈りいたします。

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長い長い一日がこうして終わった。

ラマダーン簡易断食満了

2022年のラマダーンの正式な終了は、明日か明後日、月か見えるかどうかで決まるらしいので、まだ確定していない。でも俺のラマダーン月の簡易断食は本日で終わりにした。最終的には連続14日間の断食となった。ご苦労様でありました。

本日は朝食も抜き、夕方、お腹をペコペコにして向かったのはお馴染み、Panda Bao Bao である。やはり最後はここの重慶小麺でしめたかった。

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余りにも美味であったため、スープ含めて完食してしまいました。。

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そうして明日からEid休暇に入る。これも月の見えるタイミングで休暇が5月3日までか4日までかが決まるため、いつまでの休暇かは今は分からない。なんとも不思議な感じなのだが仕方ない。

いずれにせよ、俺は明日から今年2度目のWeekend Bullet Back Packer の旅に出かける。今後は前回よりちょっと遠い旅になる。全身好奇心いっぱいにして、歩き回りたいね。

日本国大使閣下ご来訪

本日から、アブダビ首長国におけるコロナ規制がさらに緩和された。ワクチン接種を完了した人のグリーンパスの有効期間が、これまでの14日から30日に延長された。今までは2週間に一回、全社員のPCR検査を実施していたが、月一で良くなりそうだ。そしてアブダビ首長国内のすべての商業施設、観光名所、イベントの稼働率が100%に戻るとのこと。ただし屋内では引き続きマスクの着用が義務付けられる。

いよいよ経済活動、社会活動が完全復活になってきて、当社工場への訪問客も増えてきた。そのなかで今月、特筆すべき方にご来訪いただいた。在アラブ首長国連邦日本国大使館、特命全権大使であられる磯俣大使閣下である。日本国政府関係者のご訪問は、実に2年3か月振り。アブダビ一のニッポン愛国者を自認する俺としては、万全の対応をせねばなるまい。

まずは日本国国旗の掲揚。ホテル等を除けば、我々のような一般企業でUAE以外の国旗を掲揚するのは禁止されている。ただし一国を代表する大使のご来訪となれば話は別である。事前に申請して、当日高々と掲げる。青空に日の丸国旗、映えるなあ。

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会社概要説明、工場見学、質疑応答など、たっぷり1時間半ご滞在いただいた。

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そうして嬉しいことに、大使館のインスタグラムに上げていただきました。

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しかも後日、大変ご丁寧かつ心が奮い立つようなお礼状までいただき、感謝感激でありまする。

日本国万歳、大使万歳!

別れと出会い

ここ1か月で、いくつかのお別れがあった。アブダビの飲み友だちであり、大学の同窓生でもあった Wさん。誠実なお人柄で皆さんに愛され、何度も壮行会を実施した。こちらは異業種交流会での壮行会。

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飲み友だちで。

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日本でのさらなるご活躍を祈念しております。

自転車部の重鎮、ドクターIさん。ご自宅をお借りしての自転車部の壮行会。

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こんな凝った料理を作るほどの料理上手。

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今夜ご帰国。日本でまた会いましょう。

近々アブダビを離れるかもしれないメンバー。一分一秒が惜しいです。最後までよろしくお願いします。

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そして残された自転車部のメンバー。

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新メンバーとの新たな出会いが救いですな。

ラマダーン変遷

簡易版ラマダーン断食(朝食と夕食以外は食べず、水分は許容)とはいえ、12日間継続中である。しかも断食中にかなり運動していて、昨日は夕食前の午後5時に Al Hudayriat 島に行って、強風で砂塵が舞う中、誰もいない無人のサイクルトラックを2周(20キロ)した。

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こうなったら残り3日間も完遂したいものだ。そうなると、ラマダーン期間30日間のうち、半分は一応断食に参加したことになる。

さて、俺は今年でラマダーン経験5年になる。うちコロナ禍中の2年はまともに外に出れず、精神的・体力的にも断食どころではなかった。コロナ前の2年は、今回と同じようにできる範囲で簡易断食を実行した。今年はその精神を復活させて取り組んでいるわけである。

この5年間、コロナ前とコロナ後でラマダーン風景も様変わりした。コロナ前はおおっぴらに事務所で何も食べれず飲めず(隠れてこそこそ)、昼はほとんどのレストランは閉まっていて、一部ホテル等の外人向けレストランでは食事するスペースは外から見えないように白いカーテンで覆われていた。ちなみにアブダビにもっと前からいる人に言わせると、昔は車の中で水を飲んでいると窓をガンガン叩かれて叱責されたそうだ。。

今年はどうか。少なくとも海外駐在員が行くようなレストランは、昼間からフツーに営業していて、食事はおろか、太陽が燦燦と照っているなかでお酒も堂々と飲めるのである。

インターコンチネンタルホテルのベルジアンカフェ。

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ビーチロターナホテルのブラウハウス

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家近くのジャマイカレストラン

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お馴染み、NIRIもDaikanも一般客が行き来する通り沿いのオープンスペースで、昼からのお酒もまったく問題なし。隔世の感ありだ。もっとも善良なムスリムの方は眉をひそめているかもしれないけどね。俺にとっては早い時間から飲めてしまう誘惑に困ることもあるけど。。

UAEが進めている一連の世俗化、規制緩和の一環でありがたいことだと思うけど、ここまでくると何だか本当に中東アラブの国にいるのかなという複雑な想いもよぎりますね。