anezakimanのアブダビ日記

アラブ首長国連邦アブダビ首長国に駐在になりました。そこで出会ったことを綴ります。

野外シーズン到来

コロナ再襲来が欧州中心に大きな懸念となっている。この国でも毎日の新規患者数が1千人以上と高原状態が続く。アブダビ・ドバイ両首長国間の国境封鎖についても、アブダビに入る際の陰性証明書必須に加えて、アブダビ入国から6日目に再度のPCR検査が加わるなど、強化の一方だ。

そんな重苦しい雰囲気は依然として残っているが、この国で確実に良化している環境がある。天候だ。以前からアブダビの季節感として下記の3シーズン説を主張している。

  • 酷暑の夏:6月~9月ころ。最高気温50℃前後、湿気も朝は100%近くに。昼前後の野外作業禁止となるほど過酷な季節。エアコンもないその昔はこの時期にアブダビにいる人は漁業関係者の一部であり、大半の人はアルアインなどの内陸のオアシスに避難していたという。
  • 普通の夏:10月~11月ころ。最高気温35℃前後、朝は20℃台後半まで下がる。人々は野外に出始め、いろいろなイベントが始まる季節。
  • :11月~1月ころ。気温20℃台、ドライで快適な季節。夜は肌寒く感じる。

そうしてまた普通の夏(2月~5月ころ)、酷暑の夏と循環していく。この説でいくと、今は普通の夏であり、まさに野外活動の季節到来である。今年は気温の下がりが早く感じられ、最近は日の出前後は22℃まで下がる。早朝サイクリングに出て風に当たると寒く感じるほど。週末の午前中は家中のサッシを開けて換気を始めた。

コロナ禍の最中であるが心地よい天候の中、心身の健康のためにもこうした野外活動を徐々に本格化させている。毎朝の散歩はほぼ実施、自転車部と自主活動を合わせたサイクリングは、10月前半の16日間で6日走った。さらに自転車部では、Yas Waterworldに続く課外活動を企画中。反省会の場でいくつかの実行プランを皆で作戦会議。

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本日はJubail島のある Jubail Mangrobe Park が再開したことを聞きつけて、2月以来久しぶりに夕陽の沈む時間に合わせて訪問した。以前と違って事前予約制で、金曜日の夕方だったせいか混んでいて、駐車場に入るまで5分ほど待つ。また料金もAED15だが取るようになった。

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入り口近辺にも大勢の人がいた。
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それでも最大2キロのボードウオークのコースでは人出はそれほど多くなく、微風と30度前後の気温でさわやか。ゆっくり50分ほどかけて散策する。

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ところでコロナ下での感染抑制と経済回復について、興味深い記事があった。10月10日付日経朝刊の「命か経済か」には解がない 対コロナ医療再考を の記事で、長くなるが以下全文拝借掲載する。 

菅政権は新型コロナウイルス対策を最優先課題に掲げる。秋冬に感染の「第3波」が来た場合、感染してもおよそ8割の人が軽症のまま回復するといったこのウイルスの特性を考えると「感染抑制と経済回復」の二兎(と)を追う戦略は危うい。ある程度の感染を織り込んで進めないと、一兎をも得ずになりかねない。

世界保健機関(WHO)がパンデミック(世界的大流行)を宣言してから7 カ月。ウイルスの正体が明らかになるにつれ、人間にとって「怖い」というよりは「厄介」であることがわかってきた。

9月以降、欧州の国々が一部、流行の「第2波」で再び人の動きを止めた。感染拡大を強引に抑え込むとしたら、今のところこの方法しかない。が、国内「第1波」のときのように対策が過剰と受け止められてしまうと、社会に「命か経済か」というイデオロギーの対立を生んでしまう。

医療人類学者である磯野真穂氏の主張が興味深い。新型コロナの対策は感染拡大を抑えるか、それとも経済・社会を回復するかの二者択一で語られがちだが、「命か経済か、ではなく、命と命の問題として考えるべきだ」と言う。

医療人類学とは1970年代に登場した、宗教人類学を源流とする比較的新しい学問である。医療の概念を単なる病院での治療行為としてではなく、癒やしのような心身ケアも含め、幅広く捉えるのが特徴だ。病気は、医学が対象とする「疾病」と、日常生活の不調や不安も含めた「病」とからなると考えればわかりやすい。

例えば、認知症には今の医学では根治するような薬はない。ある程度進行した段階で、疾病としての対処は選択肢がなくなる。しかし、病としてみれば違う。例えば優しく体に触れてあげるだけで、患者の不安は和らぐとされる。こうしたケアは、患者だけでなくその家族、介護にあたる人々の思いをうまくくみとっていくと、いくつも見つかっていく。

医療の現場を批判する言葉に「病気を診て病人を診ず」がある。医療人類学の考えに立つと医療はまさに「病人を診て病気も診る」ともいえよう。

死までを含めると、私たちの人生に占める医療の割合はとても大きい。現代医学の発展で感染症の治療や外科手術、がん治療などは近年、飛躍的に進歩した。

一方、薬を飲み続けなければならない慢性疾患や、心の病、認知症、終末期など、医学からのアプローチだけでは太刀打ちできない病もたくさんある。ストレス社会では「病気」か「健康」かの二元論で片付けられなくなってきた

医療人類学の視点に立つと、新たなコロナ対策への糸口がいくつかみえてくる。

磯野氏は「予防医療にみるように、あらゆる病をコントロールしたい、できるという人間の欲望が、新型コロナでも感染してはいけない、感染させてはいけないという感覚を社会にまん延させている」と分析する。

日本の新型コロナ対策は春の「第1波」、夏の「第2波」と、感染の抑え込みを主眼としてきた。対策を考えたのは主に感染症学やウイルス学、疫学の専門家たち。社会の機能維持とは関係なく、感染からの防御を優先する医学の立場に偏重した結果だ。

コロナのような厄介なウイルスの封じ込めを目指すと、その弊害として新たなリスクを生む。差別や偏見、バッシングは会社や学校が今なお、感染者の発生に厳格な対応をとる裏返しともいえる。

経済へのダメージが長引くと、コロナによる直接の死だけでなく、生活苦による死も無視できない。今年8月の自殺者数は前年同月に比べて16%増えた。女性に限ると、40%増に跳ね上がる。

磯野氏が指摘するように「命と命の問題」として捉えれば、取るべき策は変わってくるのではないか。

国内でコロナによる感染症は、ほかの肺炎と同じように「治せる病気」になってきた。国立国際医療研究センターの調査によると、6月6日から9月4日までの2276の入院症例中、死亡したケースは33例で、70歳未満に限ると1例しかない。

ならば、感染者ゼロはもう目指さない。足元で全国の感染者数は1日500人前後で推移しており、これを一定数以下にコントロールできているとし、よしとする。あくまでゼロを目指すなら、人々はまだ対策が十分でないと不安に駆られ、それによってまた、失われかねない命もでてくるだろう。

景気刺激策にもかかわらず、経済の先行きが見通せないのは、コロナに対する底知れぬ不安を抱く人が今なお、たくさんいるからだ。日本総合研究所チーフエコノミストの松村秀樹氏は「過度な恐怖が国民心理の萎縮を招き、経済に大きなダメージになっている」とみる。

人々の不安を取り除くのも医療の大切な役割だ。社会に安心を広げるために、思い切ってPCR検査を大幅に拡充してみてもいい。

確かに感染症学や疫学の立場では、「だれでもPCR検査を受けられる」といった考え方に否定的な見方は多い。しかし、人間には心があり、社会という集団に属している。その行動は科学的な合理性だけで割り切れるものでもない。コロナの医療が、現代医学頼みの硬直的な姿勢を改めなければ、厄介なウイルスに翻弄され続けることになる。

上記は日本の状況がベースだが、この国では大規模のPCR検査継続による陽性患者を出しつつ(累積患者数112,849人)、国境閉鎖や各種の罰金付きの厳格な予防策も取って、死亡者は少ない(455人、数字は何れも10月16日公表値)。こうした施策で社会に安心を広げつつ、ドバイを筆頭に規制緩和に動いて経済活動再開と社会のストレス軽減を目指していると感じる。

上記記事の言う通り、人間、コロナに怯えてじっとしているだけでは「病」の可能性が高まる一方である。竹内結子さんは「疾病」はなかったが「病」に襲われてああした悲劇となったのだろう。俺自身も「病」の一歩手前で日本に帰国できたり、今はアブダビのいろいろな人との出会いや交流がストレス軽減になり、「病」リスクを抑えてくれている。もちろん双方のバランスは大事だが、これからの良い季節、野外にどんどん出て、楽しむことも強化していきたいものである。